茶道箴 語注

vimgtext1DSC01019(2)1露地草庵(ろじそうあん):「侘びの本意は、清浄無垢の仏世界を表して、この露地 草庵に至っては塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば・・・・」などという形で『南方録』で用いられる語。起草者の久松先生は、それをふまえて、露地草庵とは、 単なる茶庭と茶席を意味するにとどまらず、「仏法が修せられる新しい形の道場」 さらには「侘数寄の茶道そのもの」を意味する語と解すべきであると言っています。なお、「露地」については後出の「白露地」参照。

玄旨(げんし):言語や思惟を絶した深奥にして玄妙な理(ことわり)。久松先生は、この語を「極則」あるいは「こつ」という言葉で言い換え、玄旨においては法則と主体が一つであるという点を強調しています。

和敬清寂(わけいせいじゃく):茶道を茶道として成立せしめる四つの理念。久松先生は、この四つを、茶道の玄旨が形をとって現れたものと見ています。そして、そのような見方に立って、「和」は普通の意味で物と物、人と人が一つになるということを超えて、「万法が一に帰す」といわれる場合の「一」にまで達するものであると言われます。同じく「敬」は仏教で言う三昧に、「清」は清濁、浄穢を超えた清浄に、また「寂」は涅槃に通ずるものであるとされます。
久松真一(抱石)
「萬(万)法帰一」
芳躅を攀じる(ほうしょくをよじる):先人の立派なおこないの跡を手がかりに向上すること。久松先 生は、有形無形の文化財にまなぶばかりでなく、それを手がかりとして茶道の根源としての禅を体得しなければならないと言っています。

侘数寄(わびすき):侘茶。「わび」という言葉は茶道の歴史の中で、単に物をもたないことや、慎み深く おごらぬことを表現するばかりでなく、「創造の主体である無一物」を意味するものとなった、と久松先生は言っています。

真諦(しんたい):「諦」は真理。世俗的な意味ではなく、出世間的な意味での真理。

心悟(しんご):さとり。茶道の玄旨は、茶という特定のものの玄旨でありながら、同時に、茶という限定を超える全人的な人間の玄旨、すなわち「心悟」という性格をもつと久松先生は考えています。言い換えると茶人は同時に真人(しんにん)でなければならないということです。

一期一会(いちごいちえ):一生涯に一度の会。
久松先生は、茶事に限らずふだんの稽古の時にも、また、茶を行う場合のみならず日常生活の万般において、一期一会の心構えが必要であると言っています。

事理(じり):仏教用語で「理」は絶対・平等の真理、「事」は相対・差別の現象。久松先生は、人間の「心の一つがね」(人間の玄旨あるいは心悟)が究極の理であり、そこから自在のはたらきとして出てくる一切の現象が事である、と言っています。

事物人境(じぶつにんきょう):「ことがら」と「もの」と「人間」と「環境/境地」。
久松先生はこの語を、茶道が成立する場を包括的に表現するために使っています。たとえば、「和敬清寂はたんに人間の、あるいいは人間の間における倫理的な法則にとどまるべきものではない。それは、十全な意味においては事物人境における和敬静寂でなければならない」と言われています。

只一箇に打擲し去る(ただいっこにたてきしさる):一度に捨てること。久松先生は、塵念を頓に断ち、山水ないし規矩にとらわれなくなることと解しています。

白露地(びゃくろじ):火事になった家から脱出した者が、建物のないところすなわち「露地」に至って安心するという『法華経』の譬えにもとづき、「露地」とは、煩悩に覆われない真実の心が露になった境地のことを言います。『南方録』に次のような一文があります。「大秘事と云は、かの山水、草木、草庵、主客、諸具、法則、規矩、ともに只一箇に打擲し去て、一物の念なく、無事安心一様の白露地、これを、利休宗易大居士、的伝の大道と知るべし」。

茶の十徳(ちゃのじゅっとく):古来さまざまな徳目が「茶の十徳」として挙げられていますが、久松先生は「綜合的に日本文化を行ずる、仏法に参ずる、仏教の日常生活化、道徳の向上、礼儀作法の尊重、高尚な趣味を養う、日本文化の高揚宣揚、日本文化の創造、文化財の保存、薬効」の十項目を提案しています。

喫茶去(きっさこ):ここでは、中国唐末の禅師趙州(778-897)が「喫茶去」という言葉によって弟子を悟りに導こうとしたという話が念頭に置かれています。

寥廓((りょうかく):からりとして広いこと。