久松先生献茶会

久松先生献茶会の経過

久松ひさまつ真一しんいち先生は昭和55年(1980)2月27日、岐阜市の御自宅で逝去された。行年91歳であった。久松先生はかねてより「われ死すも 引導 追薦 葬 無用 むくろを 荼毘だびて 骨な拾いそ」とか、「わが墓碑は 碧落(へきらく)に建て 碑銘をば FAS と 深くきざまむ」などと、追薦法要や墓碑建設など、一切無用であるという、強い御意思を御家族及び弟子達に示しておられた。逝去された時、御遺体は火葬に付されたが、御遺族は先生の御遺志に従って御遺骨を拾われなかった。当然墓碑も建設されなかった。
3年後の昭和58年、先生と御親交のあられた相国寺僧堂の師家であり、相国寺の管長であられた止々庵 梶谷宗忍老師が久松先生の「法事」を発願された。相談に与った心茶会の倉沢行洋清衆は、御逝去から3年のこの時期に「法事」というと、いわゆる「追悼法要」と誤解される恐れがあるとの懸念を申し上げた。最終的にこの会は「献茶会」という名前になり、主催者は相国寺僧堂と決まった。
この会は、久松先生を正客としてお迎えして一碗の茶を捧げ、参会者一同がお相伴するという会となった。実際には梶谷老師が久松先生の真前(しんぜん)に焼香され一同が般若心経を総誦した後、老師が先生に一碗の茶を捧げられ、これを老師が喫せられ(相伴され)、同時に参会者は各自に配られた一碗の茶を喫する(相伴する)という次第が、こうして成立した。
献茶に続いて梶谷老師の御挨拶があり、続いて心茶会およびFAS協会の代表の挨拶があった。少時休憩の後、清談の会とて、事前に指名されていた一人の参会者による約45分の講話があり、続いて指名された数名の参会者によって、久松先生の思い出が語られた。
以上のような次第で、第1 回久松先生献茶会は昭和58年(1983)8月21日に相国寺僧堂において、約60名の参加者をもって行われた。
この久松先生献茶会は、先生の御遺徳を偲び、久松先生の晩年の主張であるFAS(Formless Self 無相の自己に目覚める;All Mankind全人類の立場に立つ;Superhistorical history歴史を超えた歴史を創造する)を噛みしめつつ、毎年夏に相国寺僧堂において行われた。京都で行われたことでもあり、久松先生と親交のあった各方面の方々が集まられ、それぞれの立場と体験を通しての、様々の先生像が披露された。また控え室には久松先生の遺墨が展示されて、参会者を喜ばせた。
一燈園燈影舎の社主 三上浩史氏は久松先生と御親交があり、この献茶会に全面的に協力された。参会者側の世話人として、今泉・倉沢・堀尾・三上の4名が選任された。
この久松先生献茶会は相国寺僧堂において12年続いた。止々庵 梶谷宗忍老師は平成 7年(1995)1月16日世寿82歳をもって逝去せられた。僧堂の師家を継がれた田中芳州老師より、以後、久松先生献茶会を相国寺僧堂の行事として行うことは取り止めたい、との御意向が世話人に伝えられた。
久松先生の御遺徳を慕う人々は献茶会の復活を念願したが、問題は約40人が集まれる和風会場の確保と、献茶に必要な茶碗の調達であった。京都市内でどこかの寺院に御願いすることも考えられたが、毎年となれば、こちらで考えるほど簡単なことではなかった。
心茶会清衆である溝口史郎は平成元年(1989)4月以降学校法人神戸学院の理事長を勤めることになったが、折から神戸学院女子短期大学では学生会館を建設中であった。この学生会館の二階に茶道部及び筝曲部が使う床の間付の和室約30畳と、それに続く運動部の合宿用の約30畳の和室があった。どちらの部屋にも広い押入れが付属しており、茶道具や筝も、合宿用の寝具も、すべて押し入れに納めれば、約60畳の広い冷暖房完備の和室となった。この和室階の入り口の部分は自習・談話室で、約50席の椅子と机があり、軽食を提供する為の厨房も付属していたので、和室に湯茶を供給することも容易であった。
数茶碗の入手については予期せぬ幸運があった。たまたま、学校法人神戸学院の評議員井上紀生氏が京都嵯峨の大覚寺の管長に選任された。その晋山式に参列した溝口は、引出物として清水焼の抹茶茶碗を頂いた。そこで井上氏にこの茶碗に残りがないかと尋ねたところ、井上氏の晋山式の分は既に残りはない。しかし次の管長の晋山式の分ならば今から言っておけば50個の入手は可能であるとのことで、早速御願いし、数年後に清閑寺窯嵯峨御所茶碗50個を実費で譲って頂くことができた。これが今日も使われている茶碗である。
平成9年(1997)春、倉澤と溝口は一燈園の三上氏による茶会に招かれ、さらに夕食を頂いた。その際献茶会の復活のことが話題になった。三上氏は非常な熱意を持って献茶会の復活を要望され、諸雑事は全て当方で引き受け、その費用も負担するとまで言われた。溝口は、神戸学院女子短期大学における和室の建設と、大覚寺の茶碗が入手できたことを報告し、これらを使えば献茶会を心茶会の行事として復活できることを述べた。倉沢はこの情報を心茶会の理事会で検討し、更に総会に諮って、献茶会を心茶会の行事として行うことを決定した。
こうして久松先生献茶会は、3年の中断を越えて、第13回献茶会が心茶会の行事として、平成9年(1997)9月7日に神戸学院女子短期大学の学生会館の二階和室を会場として再開された。
献茶会に対する一燈園の御協力は非常なもので、献茶会の案内・出席者の確認などの庶務は燈影社が引き受けて下さっており、更に床の間を飾る花は一燈園の境内に咲く花を毎回献花して下さっている。燈影社の協力は、三上氏が亡くなられてからは、後継者の岩淵万明氏によって引き継がれ、今日まで続いている。
神戸学院女子短期大学の和室は広さも十分であり、厨房や談話室も付属していたから、献茶会の会場としては申し分がなかった。しかし、残念ながら平成13年頃から入学志願者が激減して、終に平成18年3月をもって女子短期大学は廃校となった。
一方、神戸学院大学は、震災で壊滅したポートアイランドのコンテナヤードの跡地14.4 haを神戸市から購入し、ここに新しいキャンパスを建設した。工事は平成19年(2007)3月に完了した。この時溝口は、学生及び教職員の教養に資する目的で、構内に正式な茶室を建設して寄付した。これが三輪(さんりん)庵(あん)である。これは8畳の主室と6畳の前室からなり、水屋と付属の物入れを広くとり、茶会に必要な道具一式は押入れと物置の中に常備されている。
平成20年(2008 )以降は、久松先生献茶会は三輪庵で行われている。
第13回献茶会以降、当日会費を1000円としている。これは献茶会そのものを独立採算の行事として、心茶会の会計に負担をかけないことを目的としている。
なお、第1回より第19回までの詳細な記録が「喫茶去」という印刷物に掲載されている。

第13回以降の献茶会の記録

 第13回  平成9 年9月 7日  神戸学院女子短期大学学生会館  46人
 第14回  平成10年9月6日  41人
 第15回  平成11年8月29日  42人
 第16回  平成12年8月20日  46人
 第17回  平成13年8月19日  35人
 第18回  平成14年8月18日  30人
 第19回  平成15年8月17日  16人
 第20回  平成16年8月29日  20人
 第21回  平成17年8月21日  26人
 第22回  平成18年8月20日  24人
 第23回  平成19年8月19日  26人
 第24回  平成20年10月5日  神戸学院大学三輪庵  30人
 第25回  平成21年10月4日  19人
 第26回  平成22年10月3日  18人
 第27回  平成23年10月2日  30人
 第28回  平成24年10月7日  15人
 第29回  平成25年10月6日  25人
 第30回  平成26年10月12日  18人
 第31回  平成27年10月2日  27人

久松先生遺詠
形なき 自己にめざめて 不死で死し 不生ふしょうで生まれ 三界を遊戯ゆけ

今更に 死すとや 誰か言ふやらむ もと不生なる 我と知らずや

我死すも 引導 追薦 葬 無用 むくろを荼毘だびて こつな拾いそ

わが墓碑は 碧落へきらく に建て 碑銘をば FASと 深く彫(きざ)まむ

大死せば 来るにや及ぶ 今そこで そのまま 真の臨終りんじゅうあはなむ

「喫茶去」に収録されている梶谷宗忍老師、片岡仁志先生、及び西谷啓治先生の御挨拶の一部をここに再録する。これによって初期の献茶会の雰囲気を感じてもらえれば幸いである。梶谷宗忍老師は修行僧の時代に久松先生の講義を聴講しておられる。
梶谷宗忍老師の「久松先生の佛教講義に寄す」
久松先生の御講義は、ただにその学理の明快なる、その教示の真実なるに留まらなかった。そこには常に、質幽玄にして、性清冷なる、一条の光輝があった。それは教室の片隅でひそかに拝聴する無学の一修行僧の身をも貫き、その閑葛藤の心底を照らし、その者をサット一段高き別世界、清浄なる本来の場へ救いあげられるを覚えずにはおかぬ、すがすがしくも力強い霊明の光輝があった。今改めて師恩の深きを知る。
第2回献茶会における片岡仁志先生の挨拶 (京都大学名誉教授 教育学部)
久松先生の言われる、無相の自己に覚め、全人類の立場に立ち、超歴史的歴史を創造するということの基本は、無相の自己に覚めるということである。この無相の自己に覚めることなくしては歴史の創造ということもない。そして特に注意しておかねばならないのは、久松先生におかれても、無相の自己に覚めるについては、厳しい修行があったということである。この修行なくしては無相の自己に覚めるということはありえない。実地に足を踏みしめて、修行していってもらいたい。
第2回献茶会における西谷啓治先生の挨拶 (京都大学名誉教授 文学部)
現代という時代は世界が一つになっている時代である。日本文化が直ちに世界中に響く時代である。茶道の場合も、アメリカやヨーロッパでこれを修めようとする要求がある。
茶道はそうゆう要求に答えるようなものにならなくてはならないのではないか。
茶道がアメリカやヨーロッパで求められているということは、現代の危機的状況の克服に何か資するものが茶道にあると、彼の国の人々が考えている、少なくとも感じている、ということであろう。世界が一つになっているといっても、欧米の文化と日本の文化とが全く同じになったということではないであろう。むしろ根源的には両文化は全く異質のものであろう。
それでは一体世界が一つになった、ということはどういうことであろうか。私なりに考えて、世界のそれぞれの国の文化がそれだけで自立しているのではなくて、相互に対立し合い、せめぎ合っているという仕方で、それぞれの文化は他の文化なしには考えられないという意味で世界が一つになった、ということだと思う。従って現代においては調和でなくして、対立が根本にある。そういう状況の中で茶道が求められているということは、この対立を調和へともたらす何かが茶道にあると世界の人々に感ぜられているのだと思う。これを私なりに考えると、久松先生のいわれる無相の自己ということを求めているのだと思う。つまり姿・形のない自己、つまり裸の人間になることによって、対立の根源に立ち帰り、そうすることによって相互理解が成り立ち、対立が調和へともたらされる。茶道はそういう現代の問題に答え得るようなものにならなければならない。

文責 平成28年10月吉日 溝口 史郎ふみお